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【アラベスク】  第15章 薄氷の鏡



第1節 陽だまりの涙 [2]




 やがて陽翔は孤立するようになった。幸いイジメなどの対象にはならなかったが、人付き合いが上達する事もなかった。
 そんな陽翔が英語教室へ通う。
 知らない先生。知らない生徒。知らない人たちばかりの中に一人放り込まれる。
 嫌だな。
 塾の扉を前にして、陽翔は俯いた。唇を一瞬冷たい感触が撫でていく。
 帰りたい。
 玄関の前でモジモジしていると、扉の方から勝手に開いた。
「わぁっ!」
 それが第一声だった。
「びっくりしたぁ。大丈夫? 扉で頭とかぶってない?」
 出てきた女性は目をクリクリさせて陽翔の頭を撫で、そうして顔を覗き込んだ。
「大丈夫?」
 陽翔は反射的に顔を逸らした。
「大丈夫です」
「よかったぁっ」
 チラリと見上げると、そこには満面の笑みが広がっていた。綺麗な笑顔だった。まるで太陽のようだと、呆けたように見上げた。
「勢い良く開けちゃったから、ぶつかってたらどうしようかと思った。でもまさかこんなところに誰かがいるなんて思いもしなかったから」
 笑いながら、少しホッとしたようにまっすぐに見下ろしてくる。その黒々とした瞳と、陽翔の瞳がぶつかった。
「で、あれ? 君は?」
 視線が揺れる。陽翔の瞳から外れてしまいそうになる。
 そう思った時、咄嗟に言葉が出た。
「小童谷陽翔です。今日が初めてです」
「あぁ、君ね。手続きの時に風邪をひいてて来れなかったのよね。大丈夫?」
「あ、はい、もう治りました」
 嘘だ。風邪なんかひいてなかった。知らない人に会うのが嫌で仮病を使っただけだ。自分が行かなければ手続きはできないだろうなどと、子供心に画策したのだ。
「もう大丈夫です」
「そう、よかった。うん、ハキハキ答えて、気持ちがいいね」
 そう言って、山脇(やまわき)初子(はつこ)はまた笑った。
 思えば、初めて視線がぶつかった瞬間から、陽翔は恋に落ちていたのかもしれない。クリクリと良く動く、でも話をする時にはまっすぐにこちらを見つめてくる視線が、陽翔には心地良かった。
 氷の眠り姫は、キスをしてもこちらを見てはくれなかった。母親は、祖母とは議論をしても、自分の意見を聞く事はほとんどなかった。そして祖母も、陽翔の意見を聞く事はなかった。
 何がしたいのか? 誰と遊びたいのか? どこへ行きたいのか? そういう問い掛けはあまりしなかった。一緒に菓子を食べよう。一緒に私と遊ぼう。一緒に公園へ行こう。祖母の方から提案された。
 だが、山脇初子は違った。
「はい、小童谷君。ここの文章を訳してみて」
「はい。あ、でも知らない単語が。ちょっと辞書で調べてから」
「ダメダメ、すぐに辞書に頼ったらダメって言ってるでしょう? 前後の単語からまず推理してみて」
 まっすぐに陽翔を見つめ、ハキハキと告げる。そして間違っても、決して咎める事はしなかった。見当外れな答えをしても、初子は決して否定しなかった。
「なるほどね、そういう訳し方もある、か」
 右手を頬に当てて少し小首を傾げる仕草を、陽翔は可愛いと思った。その姿が見たくてワザと間違った答えをした事もある。
 次の授業ではどんな答えをしようか?
 考えるだけでワクワクした。予習復習が楽しくてたまらなくなった。当然、英語力もグングンと伸びた。中学に入学して英語の授業を学校で受けるようになると、陽翔はテストのたびに満点を取った。
「ほらね、だから塾に通わせて正解だったでしょう?」
 喜ぶ母親の言葉などどうでもよかった。とにかく陽翔は、初子の姿を見ていたかった。授業の無い日でも教室のあるマンションの近くまで行くようになった。
 一目でも見たい。
 帰りが遅くなると祖母がグチったが、そんなモノは大して気にもならなくなった。
 マンションのそばの公園でジッとその姿を待つ。すると、時々初子とは違う別の人物が教室のある部屋へと入って行く。背中を丸め、陰鬱そうに、いつも俯き加減でノロノロと歩くその人物が、陽翔は嫌いだった。なぜならば、その存在のせいで大好きな初子先生の瞳が曇ってしまう時があるからだ。
瑠駆真(るくま)、帰ってきたら、ただいまくらい言いなさい」
 そんな言葉が奥の部屋から聞こえてくる。そうして教室に姿を現した初子先生の瞳は、決まって少し揺らいでいる。いつものように、まっすぐに陽翔を見てはくれない。時々、少し虚ろに宙を彷徨ったりもする。
 まるで氷の眠り姫。
 陽翔の胸に、少しずつ苛立ちが募ってゆく。
 またアイツのせいだ。アイツのせいで、先生が俺から視線を逸らしてしまった。なんであんなヤツが先生の息子だったりするんだよ?
 ストレスとは、溜まり始めると体中に充満するまで成長を止めない。
「何であんなヤツが先生と一緒に暮らしてんだよっ」
 他の生徒が帰ってしまった後、夕日の染まる教室で陽翔は拳を握り絞めた。
「小童谷君?」
 驚いたような初子の顔が、陽翔の怒りをさらに誘う。
 なんで? なんでそんな顔して俺を見るんだよ? 当然だろ? 大好きな先生が辛い想いをしているんだ。腹が立つのは当然だろ?
 胸に広がる切なさが怒りを後押しする。
「先生、あんな根暗なヤツと一緒に暮らしてて、楽しいのかよ?」
 仮にも瑠駆真は初子の息子である。その存在を根暗と詰る事に罪悪を感じないのは、初子の瞳を独占したいと想う恋の仕業か。
「俺、一緒に住んでやろうか?」
「え?」
「俺、一緒に住んでやるよ。そんでさ、俺も働いて、もっと広い家に住むんだ。そうしたら先生だって、あんな根暗な奴の顔を毎日見なくて済むだろう?」
 唐突な提案に初子は面喰い、次には笑い出した。
「あははは、そうね、小童谷君が一緒だったら、毎日が楽しいでしょうね」
「俺、ホンキだぜ」
「はいはい、わかってるわよ。でもね、それまらまずは唐渓に受からないとねぇ」
 中学三年の陽翔には高校受験が控えている。母親の切望で、隣の県の唐渓を受験する事になっている。
 廿楽(つづら)華恩(かのん)という同じ歳の親戚が中学から通っている学校だ。母親が言うには、品行方正でとても教育熱心なのだとか。
 隣の県の学校だと、ここからは通えなくなるのだろうか? 祖母がいまだに渋っているのを見ると、合格すれば祖母とは離れて一人暮らしをする事になるのだと思う。
 祖母と離れるのは構わない。むしろ束縛から解放されるのだから願ったりだ。
 だが陽翔は憂鬱だった。
 この塾にも、通えなくなるのだろうか?







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